参考ルート

ルート1:合歓の里~出口土倉~第三選鉱場~坑道口
     【約1~2時間】
ルート2:合歓の里~出口土倉~第三選鉱場~坑道口~第二選鉱場~堰堤
     【約3~4時間】


その他にも出口土倉の集落跡や伊勢湾台風慰霊碑を巡るコースなど、参加人数やお時間に合わせてご提案させていただきます。
ご希望も含めてお気軽にお問い合わせください。

●ガイド料

 個人一般:10,000~20,000
 旅行会社等:15,000円~

参加者15名につき1名のガイドが基準となります。少人数でも料金は変わりません。
ご案内させていただくコースや内容によりガイド料が変わります。
詳しくはお問い合わせください。

土倉鉱山について

明治43年(1910年)田中銀之助が鉱山の権利を購入、採掘
大正5年(1916年)田中鉱業㈱に権利移転。杉本隧道工事
大正7年(1918年)杉本隧道開通
昭和4年(1929年)水力発電所完成
昭和9年(1934年)朝鮮鉱業開発㈱(現・ニッチツ)に権利移転
昭和12年(1937年)木之本硫酸工場への空中索道稼働
昭和15年(1940年)事業所を奥土倉から出口土倉へ移転
昭和17年(1942年)第三選鉱場完成
昭和18年(1943年)木之本硫酸工場閉鎖
昭和31年(1956年)新たな西部鉱床開発。従業員家族400戸超
昭和38年(1963年)銅鉱石の貿易自由化
昭和40年(1965年)閉山。銅価格低迷や西部鉱床低品位化のため

【土倉】は大字金居原における集落のひとつ。江戸時代に彦根藩の御用炭を命じられた余呉町柳ケ瀬の人々が移り住んで以来、薪炭の生産地として開かれてきた。
明治40年(1907年)に岐阜県の中島善十郎が鉱石の露頭を発見、明治43年(1910年)に田中銀之助が権利を購入し採掘を開始。土倉には分教場や浴場、従業員のための長屋などがあった。
豪雪地帯の土倉では雪による災害から逃れるために昭和13年(1938年)頃から2㎞ほど下った出口土倉へ生活の場を移した。昭和15年(1940年)には出口土倉で第三選鉱場も稼働し、診療所や配給所、男女別の浴場や映画館などの施設も建設され、最盛期には400戸、1500人ほどが生活していたといわれている。
しかし、昭和38年(1963年)銅鉱石の貿易が自由化され、銅価格の低迷や新たな西部鉱床の低品位化のため採掘コストの採算が合わなくなったことなどから昭和40年(1965年)に閉山。明治43年から55年間続いた土倉鉱山の歴史は残念ながら終わりを告げた。

土倉鉱山跡は建物老朽化のため大変危険ですので立入が禁止されています。